5名のゼミ生と福田で、台北から金門島を訪れ、2泊3日の研修を行いました。参加人数は少なめでしたが、その分密度の濃い研修となりました。今回の研修では「古洋楼金門地方創生基地」という、現地の若者が中心となって進めている地方創生プロジェクトから有り難い協力を沢山得られました。また、現地の人々交流する機会があり、彼・彼女らとの対話から多くを学びました。記録は前編と後編に分かれていますので、是非後編もお読みください。
私たちが宿泊した民宿である水頭古洋楼の肝となる洋館(中国語では洋楼)は、かつて商業のため海外に移住した華僑が、金門に戻った後、従来の閩南風建築に洋式の建築を加えて完成させたものである。建築物の外観は彩色の美しいタイルに覆われており、タイルの中には日本で作られたものも多いが、そのデザインは欧米文化圏(特にスペインやポルトガル)の大聖堂のモザイク装飾をも思い起こさせる。
閩南の文化では、娘ができたら成人(18歳)するまで他の男性に見られてはならないという規範があり、多くの場合はこの洋館の上階で生活していたそうだ。金門で暮らしていた人々は、このような閩南文化を誇りと思っているところが多いが、現代においてはそれが台湾本島との溝を生んでいるようにも思えた。
この建物が一般の宿泊客に向けた民宿の営業を開始したのは2020年だそうだ。民宿となっている閩南風建築部分には共用スペースが多く、他の旅行客と顔を合わせて、露天の四合院(壁に囲まれた正方形の空間、洋館の中心部)で話をすることで、新しい人と知り合う機会もできそうだった。また、アメニティも充実しており、個人的にびっくりした点はキッチンにカクテルを作るセットがおいてあったことだ。このように、民宿の設備は前近代的なものと近代的なものが融合し、客室内にはエアコンや、強い水圧を持つシャワーヘッドなど、ありがたい施設もあった。
時代の流れを実感できる共用部で読書や雑談をし、ほろ酔うぐらいまで酒を飲んで、夕日や雨の音を聞くと、時間の流れが遅くなったのではないかと錯覚する。そのような空間がこの民宿にはあった。(たてやま)
金門島の西南部にある古崗地区は、大古崗と小古崗の2つの集落から構成されている。付近にある古崗湖は蔣介石の故郷である浙江省に景色が似ていることから、湖のほとりに建つ古崗楼とともに整備がなされた。また、ここには明王朝が清王朝に中国大陸を奪われたあとに中国広東より金門にわたってきた明王朝の役人の墓も存在している。そして、古崗では清朝末期から民国初期にかけて、経済的に成功した華僑が故郷に貢献し錦を飾るためにいくつかの洋楼が建てられた。
そんな古崗地区も1958年の第二次台湾海峡危機以降は砲撃にさらされ、住民にも戦火が及んでいた。そんな中、古崗地区では砲弾から命を守るために住民たちが中心となって防空壕が作られた。1949年の中華民国政府の台湾撤退以降、金門では物資が不足しており、住民用の防空壕を作る物資は用意されていなかった。そのため、古崗地区の住民たちは地区を囲む山にある大きな岩を用い、砲弾が飛んでくる方向から身を隠してその場をしのんだという。後に、住民たちは石や岩を加工し、自然を活用した民間用防空壕を作った。台湾本島から物資が安定して供給されるようになった1960年代後半以降は、住民用の防空壕にもコンクリートが用いられるようになり、古崗地区においてもいくつかのコンクリート製防空壕が建設された。現在でもその多くが集落の中に現存している。
我々が民間用防空壕につくまでに歩いた道は、険しく足場が悪い山道であった。公園として整備された今でも、防空壕がある場所にたどり着くまでは大変であった。当時の住民は砲弾が飛び交う中、自らの命を守るために必死の思いで防空壕へ駆け込んだのだろう。もちろん当時は砲弾の影響だけでなく、はげ山であったとはいえ山には道すらなかっただろうから、岩に隠れる大変さも今とは段違いだっただろう。だからこそ、集落にコンクリート製の民間用防空壕ができた時、住民たちが抱いた安心感は強かったと思う。
我々は、今回地元のガイドさんに案内してもらい、金門での戦争と人々の暮らしを知る機会が何度かあったが、この民間用防空壕と集落の見学もその一つである。第二次台湾海峡危機をはじめ金門島での戦いについては、軍事面や軍隊の功績ばかりが注目されがちであるが、このように民間の人々が戦争で受けた影響を知ることのできる機会は貴重である。(さかもと)
特約茶室は別名、軍中楽園とも呼ばれ、1960年代から1970年代に国民党軍によって作られた慰安所である。中国大陸から来た軍人たちは、共産党軍との戦争に勝たないと大陸に戻れないというストレスにさらされたり、家族に会えない寂しさを募らせたりと、戦うモチベーションや精神状態の維持が難しくなっていったため、軍人たちのモチベーションや精神状態の維持のためにこのような慰安所が作られたそうだ。
金門島には当時、一般の人よりも軍人の割合が大きかったため、このような軍人のモチベーションを維持するための娯楽施設として、映画館、ビリヤード施設、劇場、かき氷店などがたくさん作られた。後年、中国大陸から来た軍人が除隊していくと、台湾本島からきた軍人たちが軍の多数を占めるようになった。彼らは兵役が終わったら台湾本島に戻ろうという考え方であったため、大陸から来た軍人ほど感情のコントロールができない精神状態ではなかった。そのため、特約茶室などの娯楽施設は徐々に島から減っていったそうだ。
この特約茶室で働いていた女性たちについては、様々な説がある。展示館の説明によれば、特約茶室で働くことで刑が軽減されるため、もともと刑務所にいた女性たちが働いていたという説がある。ガイドの方が補足してくれたそのほかの説として、もともと台湾で性的サービスを提供していた女性たちが、軍の施設である特約茶室の方が待遇が整っているという理由で、働いていたという説もある。ここで働く女性たちは、18歳以上で配偶者がいないこと、性病がないこと、20歳未満の場合は保護者の同意を得ていることが必要だった。それ以外に、ここで働く女性たちは週に一度は身体検査を受けたり、トイレやシャワーなどの設備が整っていたりしたそうだ。(まるたに)
私は研修の事前学習で高粱酒のことを調べていたため、經武酒窖の見学を非常に楽しみにしていた。ここは、以前は軍用の坑道であったが、現在は高粱酒を蒸留し、貯蔵する工場になっている。工場の近くには金門砲戦の時代に弾薬庫として使われた跡が残っており、かつての戦争の雰囲気を感じることができた。
私たちは工場に入った後、高粱酒の製造方法について一通り説明を受け、事前にもらった小さなグラスで二回目の蒸留から日を置いていない高粱酒を試飲した。高粱酒は最低でも四年間は貯蔵する必要があり、それは高粱酒の製造過程のなかでも初期のものとなるそうだ。私が飲み慣れていないだけかもしれないが、アルコールや独特の香りを強く感じ、やや飲みにくいと感じた。
その後、引き続き工場内を案内してもらい、高粱酒の貯蔵について説明を受けたり、經武酒窖の成り立ちなどを教えていただいたりした後に、また高粱酒を試飲した。次に飲んだものは二回目の蒸留からしばらく時間を置いたもので、一つ目に比べるとかなり味が落ち着いていて飲みやすかった。私は強いお酒があまり得意ではないため少ししか飲めなかったが、一緒に案内を受けていた地元の観光客は涼しい顔で飲み干していたことに衝撃を受けた。
最後に、瓶詰めし、出荷する段階の高粱酒を試飲した。これは十分な熟成を重ねているのでとてもマイルドな感じがあったが、やはり飲み慣れない身からするとかなり特徴的な味だった。見学後、工場に付設された販売所で、烏龍茶、ジャスミン茶、高粱酒で作られたカクテルを頂いた。これが一番飲みやすく、フルーティーな味がしながらも最後に高粱の香りが香るとても美味しいお酒であった。(かねこ)
八二三砲撃に関する遺跡や記念館は島の至る所にあり、金門島が国共内戦、1950年代の2度の台湾海峡危機にいかに大きな影響を受けたのかがよく分かった。兪大維記念館の向かいにある八二三戦史館は戦争に関する最も大きな博物館であるが、今回は改修中で訪れることがかなわなかった。次回金門島を訪問する際には必ず訪れたい。
兪大維は中華民国国防部長として活躍した軍人である。彼の記念館には、八二三砲撃戦の時に兪の頭に刺さり、彼が亡くなった際に取り出されたという砲弾の破片や、その時に彼の胸に分厚い本が置かれたことによって奇跡的に弾薬が貫通するのを防いだという逸話に出てくる本の現物が展示されていた。これらの展示から、国防部長として「前線部長」と呼ばれるほど前線にも積極的に足を運んだ姿勢、軍人にもかかわらず留学経験があり、博識で読書家であったことなど、兪の人柄を知ることができた。
田埔地区は、今では牛がいるほどのどかな街並みが広がっているが、当時はこの地域一帯がすべて軍事要塞化しており、今でもその面影が残っている。田埔観測所からは、対岸に中国大陸を望むことができる。当時の中華民国軍のほとんどが大陸出身であったことを踏まえると、生まれ故郷が目と鼻の先にあるにもかかわらず、帰ることが叶わないという状況で大陸反攻を夢見ていたというのは、なんとも感慨深いものである。当時の軍人たちに思いをはせることができる場所の一つである。(こぐすり)
1958年8月23日、中国大陸より金門島に向けて、中国人民解放軍の砲弾が突如として撃ち込まれた。そこからのおよそ2か月、人民解放軍と中華民国(台湾)国軍による熾烈な戦いが続いた。国際的には第二次台湾海峡危機として知られるこの戦いは、台湾では八二三砲戦と称され、金門島では今でもその「勝利」が祝われている。太武山忠烈祠には、この八二三砲戦を中心に、古寧頭の戦い、大胆・二胆島の戦い、台湾海峡危機の際の戦闘でなくなった中華民国国軍の兵士が祭られている。台北の国民革命忠烈祠と性質はよく似ているが、太武山忠烈祠はその後ろに軍人の墓地があるのが特徴である。
2024年の八二三記念式典は5月に総統に就任した頼清徳総統が訪問することもあって、厳戒態勢の下で行われた。彼は兵役時代に金門島で任務を行っていたこともあり、総統就任後初めての記念式典に出席するため、金門を訪れた。
私たち一行は、福田先生やガイドに太武山忠烈祠で記念式典を見学できるか交渉してもらったが、警備上の理由により、式典会場の中に入ることはかなわなかった。八二三砲戦で戦った兵士の多くが抗戦(日中戦争)経験のある外省軍人であることも関係していたかもしれない。
私たちは代わりに、忠烈祠の裏手にある太武山に上り、山上から式典を見学できないか試みた。私はこの山に登るのは2回目であったが、夏の暑さもあり信じられないほどに体力を奪われた。それでも、式典を見たい一心で皆、汗をかきながら山を登った。ある程度上ったところに忠烈祠がよく見える場所があった。私たちがその場にとどまっていると、山道を警察のバイクが頻繁に通ることに気が付いた。警察官は我々にとどまらないように要請し、さすが総統がいるだけあって厳戒態勢だなと実感したが、実はこの警備の厳重さには理由があった。
金門砲戦を描いた映画の主題歌である「風雨生信心」の曲が流れると、記念式典は始まった。私たちは山の上から式典会場を眺め、YouTubeで会場内のライブ映像を見るという何ともシュールなことをすることになったわけだが、山の下から聞こえてくる音と映像が重なり、自分のいる場所の真下で式典が行われているという実感がわいた。式典が終わると、また更に警察の通行が多くなる。どうも、頼清徳総統とその車列が山道を上ってくるようだ。
少し時間がたつと、黒くて厳重そうな車の列がやってきた。どの車両が総統のものかはわからなかったが、確かに総統の車列が目の前を通った。私は今まで4回台湾に来ているが、ここまで近くに総統がいたことはなかったので感動した。彼らの車列は山の上のほうへ向かった。後に彼のSNSで、山上にある海印寺を訪れたことが分かった。若き兵役時代に、頼清徳はここで写真を撮ったことがあったそうだ。
山を下りると太武山忠烈祠の厳戒警備は解かれ、自由に中を見学できるようになっていた。軍人墓地に目をやると墓牌には氏名と本籍地が記載されていた。その本籍地を見ると、四川、黒竜江、浙江など中国大陸のいたるところの名前があった。必死の思いで日本から故郷を守り抜いたかと思えば、共産党との闘いによってすぐに故郷を失った、外省人兵士たちの名前である。大陸を取り返し、自らの生まれ故郷に帰ろうという志をもった外省人兵士たちが古寧頭の戦いや八二三砲戦などの戦役で亡くなり、大陸に二度と帰れなかったことに思いを馳せると、中華民国そして台湾・澎湖・金門・馬祖の複雑な歴史を実感する。中国大陸と台湾に挟まれた金門という最前線で亡くなった彼らの歴史を語らずして、中華民国や台湾の歴史を語ることはできないと感じた。(さかもと)
金門島と小金門島を結ぶ金門大橋から九宮坑道へ向かう際に経由する道路のロータリーの中心に、小金門島の勝利記念碑があった。これは、八二三砲撃戦勝利記念碑と呼ばれ、1958年8月23日に中国人民解放軍が金門島に砲撃を行ったことが原因で始まった戦闘を記念している。その砲撃戦での勝利を祝い、砲撃戦で使われた砲弾を模して建てられたのがこの記念碑である。この記念碑はロータリーの真ん中に建てられており、砲弾から身を守ることができるトーチカになっており、上についている記念碑は実は後から付け加えられたものだそうだ。
九宮坑道は、戦時期に軍事運搬作業を安全に行うために作られた地下作戦施設だ。この坑道は幅が広く、いろいろな工夫が施されており、海への出口が四つあることもその一つである。しかし、現地ガイドの話によると、現在通ることのできる出口は2つしかないということだった。また、この九宮坑道は「烈嶼九宮坑道」とも呼ばれるが、この「烈嶼」とは小金門の正式な名称である。烈嶼とは「割れてできた島」を意味し、その由来としては、明朝の時代に敵が追ってくるのを防ぐため、神様が島を割ってくれたという伝説が残っているそうだ。
坑道の中は薄暗くて肌寒く、どこか神秘的な雰囲気を感じるものがあった。またこの九宮坑道は、海水面ぎりぎりに作られているため、満潮になると海水で封鎖されてしまい、入ることができない場所もできてしまうそうだ。つまり、私たちが坑道の奥まで見ることができたのは、ガイドの吳さんが満潮や干潮の時間を調べ、私たちを案内してくれたおかげだった。(まるたに)
湖井頭戦史館を訪れる道中には、戦時期の教育に関するスローガンがあったり、戦史館の入口の脇に当時の兵器が置かれていたりしたので、私は戦史館を訪れる前から戦争について意識させられた。
戦史館の中に入ると、砲撃戦の際に打ち込まれた砲弾を見ることができる。弾薬が入っていたものと、共産党のチラシが入っていたものと二種類の砲弾を見ることができた。
入口から奥の方に進むと通路があり、そこでは金門島の戦史について学ぶことができた。主に写真が展示されており、芸能人が小金門島を来訪した際の記念写真や、兵士の訓練の様子など、様々な場面の写真を鑑賞できる。中には蔣介石が島を訪れた際の写真もあった。写真だけでなく、当時使用されていた銃も展示されており、様々な観点から島の戦史を見ることができる。
そのようなコーナーを抜けると望遠鏡が並ぶ空間に出た。望遠鏡で窓を覗くと対岸の厦門がはっきり見えるという仕様で、厦門のみならず雲頂山も見ることができた。望遠鏡はハッキリとものが見えるよう使うのにコツが必要で、なるべく大きく目を開き、顔を押し付けるイメージでやると上手くいった。窓からだけでもうっすらと厦門は見えるのだが、望遠鏡を使うことによって厦門に立つビルの窓まではっきりと見えた。
また、望遠鏡の他にも「金門」という文字がオシャレに形取られた電話ボックスがあり、その前の銅像と写真を撮って楽しむことが出来た。この「金門」と形取られた置物は金門島の至る所で見かけた。空港の中にも飲食店の傍にもあり、金門島にいるという気分を高めてくれるシンボルだ。他にも、当時のダイヤル式の電話が展示されており、受話器を取ると金門砲戦時の兵士の声が聞こえた。訛りが強い中国語で、聞き取るのは難しいそうだが、様々な地域から兵士が金門に収集されたのだということを実感できた。(かねこ)
猫公石海岸には、猫公石と呼ばれる岩が無数にある。たくさんの小さい穴がある、赤くさびた鉄の塊のような岩だ。それに加え、この海岸では干潮時になると、軌條砦がきれいに砂浜に並んでいる景観を見ることもできる。軌條砦は敵が海から攻めてきたとき、敵の上陸を阻むために、とがった棒状のレールを防御策のように並べた設備のことだ。現在、レールは2列ほど並んでいるが、5列並んでいたこともあったそうだ。遠くから見ると、これは大砲がたくさん並んでいるように見えるため、海から攻めようとする敵に対する十分な威嚇になっていたとも考えることができる。また、海岸から向こう岸には、中国大陸厦門のビル風景を見ることができます。海岸から中国大陸までわずか6kmほどという距離のため、年に一度、海岸から大陸までの遠泳大会も行われているそうだ。
金門大橋は2022年の10月30日に正式に開通した、金門島と烈嶼を陸路で結ぶ大橋だ。かつては船しか交通手段がなかったが、この橋の開通により、船の時間を問わず誰でも簡単に金門と烈嶼の間で行き来ができるようになったため、島の住民にも、旅行客にも便利な交通手段として親しまれている。また、毎日午後6時から10時の間には大橋がライトアップされるのも、このスポットが人気を集めている要因の一つである。さらに、橋からは金門島や烈嶼の海岸景色だけでなく、橋の周りを通過する船や、烈嶼の奥には中国大陸、厦門市内のきらきらとした夜景を見られることもあるそうだ。(まるたに)
後編につづく