福田ゼミは、2022年度の最後に、ようやく台湾での現地研修を再開することができました。9名のゼミ生がと台北と新竹を訪れ、台湾の産業の歴史や現状について学んだり、学生交流を行なったりしました。今回参加したゼミ生は、しっかりとした研修レポートを提出してくれたので、少し長くなりますが、提出されたレポートと関連する写真を一緒に掲載します。
ITRI 新竹工業技術研究院
工業技術研究院がある新竹は「台湾のシリコンバレー」とも称され、この研究院は台湾の産業として代表的な「半導体」をはじめ、様々な産業科学技術の研究、開発を担っており、台湾の産業発展を支えている場所であるといえる。この研究院で私たちゼミ生は、まず初めに簡単な施設の概要をまとめた映像を見せてもらい、その後、実際に研究院で開発、研究している最新技術を見学した。炭素エネルギーを用いた最新技術や、野菜の消費されない部分などから作られたペットボトル、また、バクテリアを用いた衣服の製造など、ほかにも普段は触れることのできない様々な最新技術に触れることができた。
その後、研究院の皆さんとゼミ生で座談会を行った。この座談会では、技術的な内容のほか、研究院で行われている最新技術の研究開発と政治との関係性や、日本をはじめとする他国との連携についてなどにも焦点を当てて質疑応答を行った。質疑応答では、中国との協力関係はあるのかという質問や、台湾の強みである半導体の有用性が今後も続いていくのかという質問、また、日本と台湾の協力関係に関する質問などに対して、研究員の方が一つ一つ丁寧に答えてくださり、今後の私たちのゼミ活動にも大きく役立つ、とても充実した時間を過ごすことができた。
台湾の半導体をはじめとする技術分野における発展は、ニュースで耳にするくらいであったが、今回実際に研究院を訪れて、台湾における技術産業が大いに発展を遂げていることを肌で感じることができた。また、研究員との座談会を通して、産業を用いた国家間での戦略や、産業と政治の関係性など、今まではあまり考えることのなかった視点をもって、話し合いができたことはとても貴重な経験であった。(小川)
新竹工業技術研究院は、絶え間なく変化する新興技術と革新の国際情勢に対処する為に設立された、応用技術のR&D研究所である。ここでは、三大重点技術開発領域であるスマートライフ(自動化運転等)、ヘルスケア(スマート医療の促進等)、持続可能な環境(グリーンエネルギーシステムと環境技術等)の研究開発に尽力している。
例えば、ここではPEFというプラスチックを利用した技術がある。このPEFは野菜から作られたもので、これを利用したペットボトルは中身の風味や新鮮さを持続することができる。ただ、コストの面などからまだ実用には至っていない。また、リサイクル可能なPVモジュールも開発された。これは発電効率が良い上、廃棄されるソーラーパネルからシリコンチップを回収できる為原材料の使用削減にもつながる。このように、工業技術研究院では半導体など科学技術の先進のほか、革新的なエコシステムに対しても同時に取り組んでいる。
最新の技術を生み出すと同時に、このような持続可能な開発をしているということは、今だけのものではなく将来に繋がる非常に重要な資産であると感じた。今世界各国で技術競争が盛んであるが、産業化という部分にプラスで価値をつけるような開発であり、半導体という技術が、台湾を守る分野としてより発展していく上で重要なものであると感じた。また、このように半導体などの技術を持つことにより、新たにビジネスが生まれる事も改めて知った。例えば地政学分野の研究員との座談会で、IT産業は工場を建設するのが高額であり、半導体不足に悩まされるこの状況下で各国が企業を誘致する動きが出ているとの話を聞いた。このように新しい技術を生み出し続けることによって、様々な部分で利益を生み出すことが可能であり、この分野は新しく、広い可能性を持っていることを学んだ。(山内)
昼食タイム
新竹工業技術研究院の食堂で、研究員の皆さんと懇談しながら、お昼を食べさせてもらいました。定食やお弁当、麺類など、それぞれが好きなものを選び、盛り上がっていました。(福田)
新竹サイエンスパーク
科学園区探索館
科学園区探索館は新竹のサイエンスパーク内にあり、台湾に科学技術産業を根付かせることを目的とし、国家の計画経済の一環として1980年に創設された。台湾では半導体の製造が盛んであり、その中心地区が新竹地区である。別名「台湾のシリコンバレー」とも呼ばれており、新竹は台湾が誇る巨大工業地帯なのである。そのため新竹には多くの研究施設がある。それらの研究施設で開発された新技術がスムーズに新製品の開発と生産につながるようにと建設されたのが新竹サイエンスパークだった。サイエンスパーク内には主に開発された製品の展示や生産に至るまでの工程、科学園区の歴史などを見ることができる。
探索館の一階は開放的な展示空間になっており、入口にはコンテストの優勝作品が飾ってある。どの作品も個性的かつ画期的なものであり、心惹かれる作品が多くあった。その中でも特に私の印象に残ったものをいくつか紹介する。
まずはクレジットカードだ。一見普通のクレジットカードのように見えるが、カードの右上に金額が表示されるスペースがあり、右下には指紋識別できる機能も付いている。このカードは指紋が一致しないと使えない仕組みになっており、なりすましによる詐欺被害を未然に防ぐことができるのだ。この製品は非常に実用的であり、実現性の点から考えても近い将来世界中に普及しているのではないかと思う。
他にもトイレに入れて病気がないかを調べるガンの早期発見アイテムや、無呼吸症候群の患者に向けた作品もあった。従来空気を吹き込む形で呼吸をさせていたものを、逆に吸い込む形にし、気持ち悪くて眠れないという今までの欠点を見事に解決した。
これらのアイテムはクレジットカード同様、実現する日も近いのではないかと予想できるが、反対になかなか実現できそうにない作品も展示されてあった。それが水素バイクである。このバイクはその名の通り水素と金属を合わせて水素を固体として保存し、バイクの中に入れ、水素の力でバイクを走らせるという非常に環境に優しい近未来型のバイクなのだが、時速は60㎞とかなり遅く実用的ではないため実現には程遠い。
次に二階に上がると産業エリアになり、半導体産業や光電産業、生物科技産業など多く産業で製造された製品が展示されてあった。その中でもこのエリアの多くの割合で占めていたのが半導体産業であった。半導体産業では川上から川下の分野に分け、どのように半導体ができていくのかわかりやすく、実物やビデオを使って説明してくれていた。
他にもバイオテクノロジー産業では一目で医療製品だと分からないおしゃれなデザインの製品が多く、中でも一番印象に残っているのは内視鏡検査ができるカプセルだ。見た目は普通の小さなカプセルなのだが、それを飲み込むと食道、胃、小腸、大腸、そして排出まですべてカメラで写真を撮っていて何か異常がないか、異物がないかを検査することができる。さらに驚くべきことは、カプセル状のため飲み込んでしまえば普段通りの生活を送ることができるという非常に画期的な製品なのだ。
三階にはサイエンスパークの歴史が年表ベースで紹介されていた。サイエンスパークが今までどのような道を辿り、世界に誇る産業を育ててきたのかがわかる非常に興味深い内容だった。
今回、サイエンスパークを見学できたことは私の中でとても貴重な経験になったと思う。驚きの連続だったし、近未来の世界を見ているようでわくわくした。何十年か後、ここで見て驚いた製品がもしかしたら普通に生活の一部になっているかもしれないし、そうなってほしいなと思うのと同時に、学生の時にすでにその技術を現地で見られたという経験が今後の私の財産になるだろうと思った。(松崎)
台湾鉄道新竹駅駅舎
この駅舎は、日本統治時代の1913年に完成したもので、台湾に現存するなかでは最古の駅舎です。歴史ある駅舎の様子を見学した後は、駅前の広場でタピオカミルクティーを飲んで、一休みしました。(福田)
旧台北鉄道工場
(国家鉄道博物館籌備処)
国家鉄道博物館は現在修復工事中で、もともとは「台北鉄道工場」という車両の修理・整備を行う工場だった。ガイドをしてくださった王さんによると、1930年代の日本統治時代に成立し、当時は台湾のなかで最も大きな工場であったという。その言葉の通り非常に広々としていて立派だった。ここでは歴史的建造物が生まれ変わる途中の貴重な時期にお邪魔させていただいたその時の様子を、ひとつずつ書いていく。
博物館に入ってすぐ、工場の従業員が出勤をしたら記録をするための場所がある。つまり当時からタイムカードのような制度があり、工場の従業員は金属の板に名前が書いてあるものを用いて出勤を記録していたという。その上の屋根にかかっている4つのスローガンが印象的だった。「快快楽楽出門」「準時上班下班」「努力増産報國」「平平安安回家」という4つのスローガンはそれぞれ「楽しく出勤しよう」「定時で出勤・退勤しよう」「国の生産のために頑張ろう」「安全に家に帰ろう」という意味である。昔に作られたスローガンだから、王さんに意味を教わるまで「死に物狂いで頑張ろう」のような意味が羅列してあるのかと予想していたが、現代においても働くうえで大切にしたいことが書いてあり、ホワイトな職場の雰囲気も感じてとてもいいスローガンだと思った。
もう少し進むと、原料を貯蔵する建物・鉄道を作ったり工事をしたりするスペース・事務仕事をするいわゆるオフィスがある。オフィスは日本が統治していた時代は1階の建物だったのだが、台湾が戦後に2階を増設した。そのため、1階は日本風なデザインで2階は中華風なデザインになっている。2階はバルコニーの手すりの部分にほどこされた彫刻が日本と全く違う模様で異国の雰囲気が漂い、1階とのちぐはぐさが興味深かった。
さらに進むとディーゼル工場がある。台湾のディーゼルはアメリカ式で、1950・60年代はアメリカの援助を受けていたという。よって工場のなかでは比較的新しい。天井は地面で作ってクレーンで持ち上げてレゴのように組み立てて完成させていたという。巧みな技術だと思った。昔のクレーンがどのようなものだったのかも気になった。また、車両がいくつも展示してあった。窓があるものは人間、要は兵隊さんを運ぶためのもので、兵器を運ぶための荷台のような車両が連結してあった。日本の寝台列車も展示しており、これは2017年にJR東日本が役目を終えたため廃棄しようとしていたところ、台湾が引き取りを進み出たというのだ。意外なところでも日本と台湾の関わりを知り、今となっては貴重であるはずの寝台列車に展示というセカンドキャリアを与えてくれた台湾に感謝した。
次に蒸気機関車の工場に進んだ。1930年代の日本が統治していた時代、台湾はディーゼルに乗る前は蒸気機関車を使っていた。現在は電気機関車である。部品も自ら研究しながら作っていたという。日本統治時代は精糖(タイワンシュガー)の機関車もあった。台北鉄道工場にて金属・発電など全部行っていたという。技術が集結した場所だったと知ってより一層、当時は大きくて重要な工場だったのだなと感じた。また、タイなどの東南アジア諸国のために電車を作っていたこともあったという。台湾は日本から輸入していたため、日本→台湾→東南アジアという関係がわかる。実際に1959年に台湾が作ったタイの貨物列車が展示してあった。2015年にタイから返してもらったという。
観光列車も展示してあり、昔の映画でしか見たことがなかった、いかにもお金持ちが食事をしていそうな豪華絢爛な食堂が内蔵されていた。椅子は日本の高島屋、テーブルクロスも日本のものを使っていたという。工場の天井にはアメリカの支援を受けて日本のHITACHIの製品を買ったことを示すマークが貼ってあったこともあり、この博物館のツアーを通じて台湾と日本、台湾とアメリカが鉄道において密に関わっていたことを知ることができた。そして工場の床はつるつるしているのではなく、レンガが敷き詰めてあった。これには訳があり、車両を作るうえで出る油が落ちても、レンガの間に流れこむためぬるぬるしないような設計になっているのだ。非常にクレバーだと感じた。
最後に見学したのは、当時の従業員が仕事終わりに汗を流すための風呂である。冒頭で見たスローガンのこともあり、昔の肉体労働のイメージが変わるような、いい職場だなと再び思った。さらにその風呂の蒸気を工場の作業に用いたという。日本の自動車工場である日産の近くに温水プールがあるが、当時からそれと同じことをしていたと考えると、やはり台北鉄道工場は非常に高いスキルを持った工場だったのだなと再確認させられた。
(佐藤)
国家鉄道博物館では、日本語を話せる職員の方の案内で旧鉄道工場を見学した。お話を聞くと、昔ここは最先端であり、すべての工程がここで完結したようだ。実際に回ってみると旧鉄道工場の面積はとても大きく、様々な設備が設置されていた。場所によって役割が分担されており、鍛冶から部品の組み立てまで幅広く、当時の工場としての価値はものすごかったのだろうと感じた。
歴史的な工場や列車を見て回った中で個人的に一判印象に残ったのは寝台列車だ。入ってみると最初は一見普通の列車のようで席も通常の座席のような配置であった。しかし、組み立てると三段のベッドに変化した。昼間は座席の特急電車として動く一方で夜間は三段ベッドの寝台列車に変化し二つの形態で運行したのだ。当時世界初だったということもあり、とても驚いた。
他に印象に残ったこととしては列車の地面がコンクリートなものがあったことだ。日本の列車は地面がコンクリートなことはないため、どうしてコンクリートなのか疑問に感じた。そこでガイドの方のお話を聞いてみると、コンクリートの床のほうが掃除しやすいからということだ。初めて見たということもありとても驚いた。また列車には発電専用の列車が存在し、電車内で使われる電気などを発電する専用の車両が列車についていることにも、とても驚いた。
鉄道博物館では興味深い鉄道工場としての働きや様々な列車の種類や施設を知ることができ大変貴重な経験ができた。こちらの博物館は多くの人々に台湾鉄道の文化を認識させるために旧跡の保存を行いながら整備工事の過程を公開している。そのため台湾の鉄道の歴史から鉄道文化の特色までも学ぶことができた。今回は研修ということで時間も限られていたのでじっくりと見られていない箇所もあったのでまた来る機会があったら見学しきれなかった箇所や列車の作られる過程をもっと細かく見てみたいと思った。(日高)
国立政治大学日本研究学程
台湾の国立政治大学は、日本が台湾を統治していた1927年に創立し、その後1954年に正式に大学として復興したということで歴史ある大学だった。生徒数も他の台湾の大学と比べると多いようで大学内の敷地は広く、緑豊かな場所にあって落ち着いて授業が受けられそうな空間だった。また私が入った教室からは大きな陸上競技場が見えて、雰囲気がとても良かった。
国立政治大学にある学部は人文系が主で、今回の訪問で私たちは日本研究プログラムに所属する方々から、「台湾の今までとこれから」というテーマの報告を受けた。私は福田ゼミでは今年1年間、台湾のことよりも中国のことについての方が多く学んできた。そんな私にとっても、とても分かりやすく要点をまとめた説明をしてくださったおかげで、台湾についての知識を深めることができた。特に、「各時代の総統による外交姿勢」という内容のところが興味深かった。なぜならこれまで名前は聞いたことがあるものの実際に行った外交の実績を知らなかった総統の外交実績を、具体的な数字と共に知ることができたからである。
なかでも、1988年から2000年にかけて総統を務めた李登輝氏は、「中華民国の名前にとらわれず外交を行う」ということをモットーにしていたようであるが、国交国数が29と台湾の歴史の中では多く、報告をしてくださった方が、李登輝氏は結果を出した総統と言っていた。高級官僚による外国訪問や経済・貿易活動の強化など今回の報告の中でも実際に行われた李登輝氏の政策について触れていたが、より詳しく自分でも調べてみたいと思った。
それと同時に、陳水扁氏や馬英九氏の外交についてももう少し詳しく学んでみたいと思った。李登輝氏が総統を務めていたころと比べると、国交国数が圧倒的に減少していることにはかなり驚いたし、それにはどのような背景があったのかがとても気になった。また李登輝氏が総統を務めていた時代の国交国数は台湾の歴史の中においては多いと言えるものの、日本と比べると大きな差があることを知った。私自身、中国、台湾の関係が複雑で緊張状態にあることは知っていたつもりであったが、私が知っている以上に様々な問題が存在しているということに改めて気づかされた。今回の国立政治大学の学生の報告は、中国と台湾の関係性について興味を持つ良い機会になったので、次年度ではこの分野も積極的に学んでいきたい。(藤井)
国立政治大学を訪れて、日台関係の学術的なことはもちろん、日本の大学生との学問に対する意識の違いや文化の違い、台湾の方の人柄など多くのことを学ぶことができた。
まず、国立政治大学の学生と研究テーマを共有する時間には、台湾の今までとこれからというテーマのもとで冷戦期の外交と現代の中台関係の緊張を取り上げた外交を比較して学ぶことができた。また、各時代の総統の外交姿勢として、李登輝(1988-2000)による国交国数の増加、陳水扁によるトランジット外交、馬英九による活路外交など各総統の時代の出来事や課題、特徴をわかりやすくまとめていただいた。中台関係の緊張を裏付けるものとして、断交ドミノが挙げられており、台湾で蔡英文の就任後に台湾と外交関係を断ち切った国家が数多く挙げられていた。また、米国のペロシ下院議長が訪台した際に中国が激怒したことや中国共産党第20回全国代表大会での中国の武力行使の破棄を約束しないという発言が挙げられていた。日台関係においては、日本のワクチン提供や台湾建国記念日の式典に京都の橘高校吹奏楽部が招待されたことがまとめられていて、今後も日本と台湾は協力関係を維持していくだろうという見方だった。
学問以外でも、台湾の学生と交流する貴重な経験を通して、日本と台湾の大学生の学問に対する意識の違いや文化の違い、台湾の方の人柄、留学を決断した日本人学生の方の考え方などいろいろなことを得ることができた。まず、国立政治大学で交流した学生は自分の夢をしっかり持っていて、そのためにやるべきことをしっかり行動に移しているイメージを持った。台湾で日本語を学んだうえで、台湾で日本のことを教える職業に就きたいと教えてくれた学生の方がいた。日本では特に文系において、どの学部に入っても就職後に大学で学んだことをダイレクトに生かす機会が少ないように感じる。また夢を持たず、何となく大きな企業に入りたいという学生は日本には多すぎるくらいにいると思う。この学問や将来像に対する意識の違いの原因を知りたくなった。
また、日本には居酒屋文化があり、渋谷や新宿では夜になると酔っぱらった大人が街を歩いているのに対して、台湾では日本ほどお酒を飲むという文化が定着していないようだった。これは原付社会であることも要因の一つかもしれない。また、台湾の学生の方々は日本の学生と性格などが似ていると感じた。交流する場が設けられたとき、緊張からか自分から話しかけに行けないような部分、しかし話し始めるとすごく優しくて熱心に相手の話を聞こうとする姿勢は日本と台湾の学生の共通点だと思う。(島田)
国家人権博物館
国家人権博物館では、戒厳令下において、政府によって人々がどのように弾圧、収監されたか、また受難者のその後の人生にどのような影響があったのかなどを学んだ。
博物館を見学する前に、白色テロの受難者である蔡焜霖さんにお会いし、直接話を聞いた。蔡さんは私たちに「緑島で政治犯として10年過ごした。刑期後、就職もしにくかった。また、のちに刑務所に入っていたのが恥ずかしくて、子供には青春の10年間は日本の法政大学に留学していたと嘘をついた。」と日本語で語ってくださった。約10年間も私たちが想像もできないような悲惨な経験をされていたことに驚いた。思い出すだけで辛いにも関わらず、人権の大切さを伝えるために活動されている蔡さんとお話した事が一番印象に残っている。
館内では収監するために実際に使われていたものや場所を、ガイドの茜さんの説明を聞きながら見た。私たちはまず軍事裁判のための法廷を見学した。この軍事裁判では、多くの人が冤罪にかけられたこと、非公開の裁判であったこと、被告人に対して大変不利な裁判であったことを学んだ。特に印象に残っているのは、一般人も軍事裁判にかけられたという点だった。通常であれば軍事裁判にかけられるのは軍人や軍の関係者のみだが、台湾はこの時期に戒厳令を敷いていたためすべての人が軍事裁判にかけられた。被告人は弁護人を雇うこともできたが、その弁護人の発言さえも処罰の対象であったため、「弁護する」ということが形骸化していたそうである。
その後、政治犯たちが入る牢屋、政治犯たちを逃げにくくするために工夫された扉などを見た。牢屋には時計がなく、白い壁の殺伐とした狭い空間だった。牢屋に入り数分説明を受けたが、ここで暮らしていたとは到底思えないほど劣悪な環境であった。また、政治犯を逃げにくくするために工夫された扉は、腰をかがめ低い姿勢でなければ通れないほど狭く、政治犯を逃がさないという信念を感じることができた。ガイドの茜さんが日本語で丁寧に説明してくださったこともあり、当時の状況などをよく理解することができた。
私たちは白色テロの恐ろしさや自由がどれほど重要であるかを再確認し、自分の立場で人権とは何かを考える機会となった。また、台湾では過去に政府が起こした人権侵害を隠さず、博物館として残すことで二度とこのようなことを起こさないという決意も感じることができた。
台湾で白色テロや人権弾圧が起こっていた事実からは目を遠ざけたくなるが、どうして起こったのか、何が起こったのか、受難者はどうなったのかを十分に知ることは大変重要であると感じた。現在、移行期の課題として、受難者への賠償や加害者の処遇など課題は多くあり、これからどのように向き合っていくのか注視していきたい。(原)
スターホステル台北駅
今回はこちらのホステルに宿泊しました。
大きくてお洒落な共用スペースと個室やドミトリーからなるホステルで、スタッフは親切、朝食も美味しかったです。(福田)